道展の場合、年をとって出品がかなわなくなると退会する場合がけっこう多いので、図録巻末の略年表だけでは会員の動静がつかみきれないことがあるのだが、それはともかく、今年の会場には、4人の遺作が展示されていた。
このうち、白江正夫(水彩)、武田貢(同)、金沢一彦(版画)の3氏については、すでに記事を書いていたが、濱田五郎さんの訃報は知らなかったので、おどろいた。
濱田さんといえば、後志管内岩内町の画家で、木田金次郎の「最後の弟子」である。
現場主義をモットーに、50号のカンバスでも、海岸などにイーゼルを立てて、その場で筆をふるっていたという。
ただし、下のリンク先にもあるが、木田金次郎が生きていた時代の「岩内派」では最も年少で、実際に描法などを教わったことはあまりないという。
「(木田金次郎は)家に来るときかならずおみやげ持ってこい-って言うわけさ。といっても、お菓子持ってこいっていうことじゃなくて、(じぶんで描いた)絵ば持ってこいってことなんだな。それで、いろいろ指導する。おれのときは、なんも言ってくれない。あるとき聞いたら『おまえのを直すなら、ぜんぶ直さなきゃならないんだ』」
「道展の帰りとか、札幌から汽車でいっしょに帰るとき、(木田金次郎が)『おまえ、いまここで列車が脱線したらどうする』って聞くわけさ。命は落としても絵だけは守れ-っていうんだ。戦争中、たとえ死んでも天皇陛下から授かった銃は守れっていうのと同じさ。そういう精神はずいぶんたたきこまれましたね」
道展の図録によると、1929年(昭和4年)生まれ。
49年に道展に初入選。
64年の項に「朝日新聞社賞 浜田五郎」とある。
翌65年に会友となり、68年に会友賞を受賞。69年に会員となった。
ちなみに69年に会員となった同期には、氏家哲、多田紘一、鈴木吾郎らがいる。
79年に札幌時計台ギャラリーを皮切りに、ほぼ毎年札幌で個展を開いていた(これは、道展会員ではむしろ少数派)。
99年以降は大丸藤井セントラルのスカイホールで毎年開催していた。
岩内でも、木田金次郎美術館のほか、ホテルうきよでよく個展を開催していた。
図録の略年譜に「2002 第14回フランス絵画彫刻国際展入選」とあるとおり、フランスの美術展にもたびたび挑戦していた。86年にはサロン・ド・パリ会員となった由である。
今年の8月23日に亡くなったという。
これを見て、そういえば、今年はスカイホールでの個展がなかったことに、初めて気がついた。
地元には、岩内美術協会という集まりがあり、やはり木田の弟子として知られ、木田金次郎美術館の開設にも力を尽くした画家で道展会員の青塚誠爾さん(1923-2005年)が長く会長を務め、いわば「岩内派」の代表格であった。
濱田さんは、同協会の会長を務めた後で脱退し、それとは別に「岩宇美術家集団」という団体の代表を率いて、同美術館で毎年グループ展を行っていた。「岩宇」というのは、岩内郡と古宇郡に属する4町村(岩内、共和、泊、神恵内)の総称で、地元ではよく用いられる地域名である。
ハマゴロこと、濱田さんで思い出すのは、とにかく話し始めたらとまらない、話好きだったこと。
スカイホールでも、エレベーターを降りたら、大きな声が聞こえてくるので、会場におられるのがすぐわかった。
芸術家というより、漁村のおっちゃん、地方の学校の先生、といった感じを筆者は受けていた。
現場主義ということで、すばやい筆で海や山をとらえていた。木田金次郎ほどには激しい筆使いではなく、写実性を残した画風といえると思う。
大半が岩内地方の風景であったが、スイスに出かけて山の風景を描いたこともあった。
ご冥福をお祈りします。
参考・
木田金次郎美術館ボランティア「どんざ丸」内のインタビュー http://donzamaru.blog121.fc2.com/blog-entry-784.html
関連記事へのリンク
■濱田五郎油絵個展 (2014、画像なし)
■第31回日陽展 (2009、画像なし)
■濱田五郎油絵個展 第26回札幌展(2009)
■第25回札幌展 積丹を描く 濱田五郎油絵個展 (2008)
■濱田五郎油絵個展 癒しを求めて (2007)
■第26回 日陽展 (2004、画像なし)
■濱田五郎 油絵個展 ~北国の冬を(古里)~ (2002、画像なし)
このうち、白江正夫(水彩)、武田貢(同)、金沢一彦(版画)の3氏については、すでに記事を書いていたが、濱田五郎さんの訃報は知らなかったので、おどろいた。
濱田さんといえば、後志管内岩内町の画家で、木田金次郎の「最後の弟子」である。
現場主義をモットーに、50号のカンバスでも、海岸などにイーゼルを立てて、その場で筆をふるっていたという。
ただし、下のリンク先にもあるが、木田金次郎が生きていた時代の「岩内派」では最も年少で、実際に描法などを教わったことはあまりないという。
「(木田金次郎は)家に来るときかならずおみやげ持ってこい-って言うわけさ。といっても、お菓子持ってこいっていうことじゃなくて、(じぶんで描いた)絵ば持ってこいってことなんだな。それで、いろいろ指導する。おれのときは、なんも言ってくれない。あるとき聞いたら『おまえのを直すなら、ぜんぶ直さなきゃならないんだ』」
「道展の帰りとか、札幌から汽車でいっしょに帰るとき、(木田金次郎が)『おまえ、いまここで列車が脱線したらどうする』って聞くわけさ。命は落としても絵だけは守れ-っていうんだ。戦争中、たとえ死んでも天皇陛下から授かった銃は守れっていうのと同じさ。そういう精神はずいぶんたたきこまれましたね」
道展の図録によると、1929年(昭和4年)生まれ。
49年に道展に初入選。
64年の項に「朝日新聞社賞 浜田五郎」とある。
翌65年に会友となり、68年に会友賞を受賞。69年に会員となった。
ちなみに69年に会員となった同期には、氏家哲、多田紘一、鈴木吾郎らがいる。
79年に札幌時計台ギャラリーを皮切りに、ほぼ毎年札幌で個展を開いていた(これは、道展会員ではむしろ少数派)。
99年以降は大丸藤井セントラルのスカイホールで毎年開催していた。
岩内でも、木田金次郎美術館のほか、ホテルうきよでよく個展を開催していた。
図録の略年譜に「2002 第14回フランス絵画彫刻国際展入選」とあるとおり、フランスの美術展にもたびたび挑戦していた。86年にはサロン・ド・パリ会員となった由である。
今年の8月23日に亡くなったという。
これを見て、そういえば、今年はスカイホールでの個展がなかったことに、初めて気がついた。
地元には、岩内美術協会という集まりがあり、やはり木田の弟子として知られ、木田金次郎美術館の開設にも力を尽くした画家で道展会員の青塚誠爾さん(1923-2005年)が長く会長を務め、いわば「岩内派」の代表格であった。
濱田さんは、同協会の会長を務めた後で脱退し、それとは別に「岩宇美術家集団」という団体の代表を率いて、同美術館で毎年グループ展を行っていた。「岩宇」というのは、岩内郡と古宇郡に属する4町村(岩内、共和、泊、神恵内)の総称で、地元ではよく用いられる地域名である。
ハマゴロこと、濱田さんで思い出すのは、とにかく話し始めたらとまらない、話好きだったこと。
スカイホールでも、エレベーターを降りたら、大きな声が聞こえてくるので、会場におられるのがすぐわかった。
芸術家というより、漁村のおっちゃん、地方の学校の先生、といった感じを筆者は受けていた。
現場主義ということで、すばやい筆で海や山をとらえていた。木田金次郎ほどには激しい筆使いではなく、写実性を残した画風といえると思う。
大半が岩内地方の風景であったが、スイスに出かけて山の風景を描いたこともあった。
ご冥福をお祈りします。
参考・
木田金次郎美術館ボランティア「どんざ丸」内のインタビュー http://donzamaru.blog121.fc2.com/blog-entry-784.html
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■濱田五郎油絵個展 (2014、画像なし)
■第31回日陽展 (2009、画像なし)
■濱田五郎油絵個展 第26回札幌展(2009)
■第25回札幌展 積丹を描く 濱田五郎油絵個展 (2008)
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■第26回 日陽展 (2004、画像なし)
■濱田五郎 油絵個展 ~北国の冬を(古里)~ (2002、画像なし)