(長文です)
考えてみれば筆者は従来、これに類する記事をほとんど書いてこなかった。
これではダメなのである。
年末に1月のはじめからじっくりと1年を通して回顧する時間などあるはずがない。
したがって、筆者のブログには、そのつどそのつどの「現在」が堆積しているばかりで、時々にまとめられた「歴史」が欠如している。
これは、後から振り返ったときに、非常に困る。筆者も困るし、もし、北海道の美術について調べてみようという人がいても困るのである。
きちんと論を展開する準備がないから手短にいうが、要するに歴史というのはヘゲモニー闘争なのだ。
誰がどういう立場でどのようにまとめるか、というところで、主導権をとったほうが、歴史を書き、後世に伝えるのである。
その機能が不全になったところに、歴史修正主義がはびこる。
representation が不能になったときに、ボナパルティズムが蔓延するように。
とはいえ、そんなことを嘆いてみても始まらないので、5章に分けて、思いつくままに挙げてみる。
1. 全国の事情
まず「学芸員はがん」発言について書こうと思ったが、これは昨年の話だった。
しかし今年も、社会からアートがいかに軽んじられているかを再認識させられるニュースがいくつかあった。
ひとつ挙げておくと、東京大学の生協食堂に飾ってあった宇佐美圭司の絵画の大作が勝手に撤去・廃棄されたという事件があった。
世の効率第一の前では、芸術の営みなんぞ、おそらくどうでもいいのであろう。そう考えると、気分が落ち込む話題である。
もう一つ、福島駅前からヤノベケンジの立体作品が撤去された問題は、パブリックアートが抱える難しさを浮き彫りにしたが、撤去そのこと自体よりも、議論らしい議論がないままに話が進んだことの方にむしろ違和感が残った。
その一方で、ナショナリスティックな性格の強い現政権は、日本文化・芸術を活用し世界に発信していく―というお題目に熱心である。
その意気込みはいいが、威勢のよさばかりが感じられる。日本の絵画などは、耐久性に乏しく、西洋画のように常時展示できるものではない―という基本が、そもそも知られていないのではないだろうかと危惧してしまう。
2. 閉鎖が相次ぐギャラリー
北海道については「ベスト5」の項で少し触れておいた。
ここで書いていないこととしては、やはりギャラリー・美術館の閉鎖に触れたい。
昨年いっぱいで、札幌国際芸術祭でもフル活用されたオルタナティブスペースのOYOYOが閉まり、さらにクラーク Gallery+Shift 、space SYMBIOSIS、自由空間、ギャラリー・パレロワイヤル、青玄洞などが店閉まいした。
来年早々にはカフェいまぁじゆが閉店し、茶廊法邑も業態を縮小する。
札幌以外では、稚内の高橋英生さんアトリエ「あとりえ華」、根室の「慟哭の森美術館」が閉館し、留萌の喫茶ビューネも幕を閉じた。
正式なアナウンスはないが、札幌宮の森美術館も再開するという話は聞こえてこない。
札幌で、いくつか新しくできたギャラリーもあるが、第2弾までこぎつけたところは寡聞にして知らない。
例外はさっぽろ創世スクエアであろう。1階のロビーと、2階のスペースが、ギャラリーとして活用されている。
もっとも、この施設は、要するにニトリ文化ホール(北海道厚生年金会館)の後継であって、アートの世界に大きな刺戟を与えるようなことはいまのところ起きていない。いや、ステージ系も、有名な演目を招いてオープニングを行ったほかは、芸術監督を置くわけでもない。この点については北海道新聞文化面などで何度も批判されているが、その批判が札幌市民・道民にどれだけ届いているだろうか。
これも手短に述べるが、21世紀のホールの要諦(キモ)は「人」である。芸術監督を配し、どういう方針でステージをつくっていくのかが問われる。ハコの豪華さを競う時代はとっくに終わっているのだ。
3. 元気な分野は写真と人形
分野別に注目すべきと思われるのは、写真と人形だった。
「HOKKAIDO PHOTO FESTA」という催しが7月のコンチネンタルギャラリーを中心に展開され、森山大道写真展やワークショップ、ポートフォリオレビュー、シンポジウムなどがあった。
一方、NPO法人 北海道を発信する写真家ネットワークの主催で12月上旬、札幌「写真都市」祭が行われ、飯沢耕太郎氏を招いてシンポジウムや講演、写真展などが開かれた。
いずれも興味深い試みだけど、外部から見ていると、なんで別々にやってんの? というのが率直な感想である。
人形作家は元気だ。
中川多理さんは京都などで個展を開き、彼女を特集した雑誌が発刊された。今年上梓された「人形論」(金森修著、平凡社)の表紙も彼女の人形である。
グループAi Doccaは札幌(道新ぎゃらりー)で展覧会を開催し、そのひとり「ラクッコピコリン」こと大山さんの妖精のような少女像は全国で高い人気を得ている。
経塚真代さんの快進撃はおなじみだろう。本州でも作品が開場と同時に完売してしまうので、抽選にしているという。
ほかにも、伽井丹彌個展(札幌・Gallery Retara)や東京での川上誠さんの発表、札幌での球体関節人形のグループ展、MoonRiver Gallery(札幌)の開設など、他の分野とくらべて話題の多さでは際立っている。
4. 道立近代美術館の惨状
その半面、本来なら真っ先に書かれるであろう現代アートや洋画、美術館(とくに公立)などの話題は比較的乏しかったというのが正直なところだ。
美術館では、北海道の美術館がネットワークでつながる「アートギャラリー北海道」がスタートし、スタンプラリーが行われている。
各美術館の持つコレクションを有効活用しようという連携の取り組みで、今年は神田日勝記念美術館の所蔵品を道立帯広美術館で展示する試み(神田日勝と道東の画家たち & 岡沼淳一・木彫の世界)などが行われた。伊達市教育委員会のコレクションが道立近代、三岸好太郎の各美術館で公開されたのもこの流れだろう。
裏を返せば、各美術館とも購入費がほとんどなく、コレクションが増える見込みもない中の苦肉の策なのだろうが、北海道は広く美術館もそこそこ数はあるので、予算がない中での工夫の余地はまだあるということだと思う。
筆者は今年、あまり札幌の外に出かけていないので、大きなことは言えないのだが、道内館では、東京・国立の展示に打って出た木田金次郎美術館や有島記念館のチャレンジ精神は「買い」だと言いたい。
また、前項でも書いたが、苫小牧市美術博物館の藤沢レオ展もチャレンジングな好企画だった。
網走市立美術館が松浦進らの2人展を企画したことや、三岸好太郎美術館の若手シリーズ「みまのめ」も記しておこう。
ただし、ほかに記憶に残る企画は正直言って少なかった。
札幌では芸術の森美術館の「五十嵐威暢の世界」は、日米をまたにかけて活動したデザイナーらしく、東京と札幌のデザイナーや関係者が開催に向けてお膳立てをするという、通例とは違った顔ぶれが支えているのがおもしろく、展示作品も興味深いものがあった。
一方で、本来なら道内の美術館をリードするはずの道立近代美術館のありさまは、どういえばいいのだろう。
マスコミが本州から借りてきた美術品を、考えもなしに、ただ並べただけとしか筆者の目には見えない展覧会ばかりが続いた。
特に、宗教団体がバックについているから一定の集客を見込めるだろうという思惑があったとおぼしき展覧会では、図録もなかった。開いた口がふさがらない。
キュレーティングが悪いのではない。キュレーティングが無いのだ。
まあ道立館はとにかくお金がないから、やむを得ない面もあるのだろう。貸しスペースだと思えば腹も立つまい。
今年の道立近代美術館は、「この1枚を見てほしい」のコーナーで興味深い研究が発表されていたものの、あとは、道内の美術の歴史にまったくといっていいほど跡を残さなかった1年だと思う。
北海道の人は、こういうのが美術館だと思っているのかもしれないな。でも、違うから。
熊本の美術館が村上隆企画の現代アート展を開いたり、各県で40~50代の現代作家の個展が開催されたりしている例を知ると、なんともいえない気分になる。埼玉も横浜も金沢も香川も、頭を使った企画をガンガンやってるからね。
公立美術館の元気さでいえば、北海道はもはや後進県といっていいだろう。
5.その他
昨年ほどではないが、今年も多くの方の訃報を聞いた。
流政之、藤戸竹喜、鬼丸吉弘、松樹路人、森山誠、藤原瞬。
このうち後半の3人は昨年亡くなり、年明けに確認が取れた人たち。
ご冥福をお祈りします。
なお、これは北海道とは関係ないが、今年は美術関連の好著の出版が相次いだ(読むのがぜんぜん追いつかない)。
『彫刻 1』『日本画とは何だったのか』『現代アートとは何か』などについては、項を改めて紹介したい。
考えてみれば筆者は従来、これに類する記事をほとんど書いてこなかった。
これではダメなのである。
年末に1月のはじめからじっくりと1年を通して回顧する時間などあるはずがない。
したがって、筆者のブログには、そのつどそのつどの「現在」が堆積しているばかりで、時々にまとめられた「歴史」が欠如している。
これは、後から振り返ったときに、非常に困る。筆者も困るし、もし、北海道の美術について調べてみようという人がいても困るのである。
きちんと論を展開する準備がないから手短にいうが、要するに歴史というのはヘゲモニー闘争なのだ。
誰がどういう立場でどのようにまとめるか、というところで、主導権をとったほうが、歴史を書き、後世に伝えるのである。
その機能が不全になったところに、歴史修正主義がはびこる。
representation が不能になったときに、ボナパルティズムが蔓延するように。
とはいえ、そんなことを嘆いてみても始まらないので、5章に分けて、思いつくままに挙げてみる。
1. 全国の事情
まず「学芸員はがん」発言について書こうと思ったが、これは昨年の話だった。
しかし今年も、社会からアートがいかに軽んじられているかを再認識させられるニュースがいくつかあった。
ひとつ挙げておくと、東京大学の生協食堂に飾ってあった宇佐美圭司の絵画の大作が勝手に撤去・廃棄されたという事件があった。
世の効率第一の前では、芸術の営みなんぞ、おそらくどうでもいいのであろう。そう考えると、気分が落ち込む話題である。
もう一つ、福島駅前からヤノベケンジの立体作品が撤去された問題は、パブリックアートが抱える難しさを浮き彫りにしたが、撤去そのこと自体よりも、議論らしい議論がないままに話が進んだことの方にむしろ違和感が残った。
その一方で、ナショナリスティックな性格の強い現政権は、日本文化・芸術を活用し世界に発信していく―というお題目に熱心である。
その意気込みはいいが、威勢のよさばかりが感じられる。日本の絵画などは、耐久性に乏しく、西洋画のように常時展示できるものではない―という基本が、そもそも知られていないのではないだろうかと危惧してしまう。
2. 閉鎖が相次ぐギャラリー
北海道については「ベスト5」の項で少し触れておいた。
ここで書いていないこととしては、やはりギャラリー・美術館の閉鎖に触れたい。
昨年いっぱいで、札幌国際芸術祭でもフル活用されたオルタナティブスペースのOYOYOが閉まり、さらにクラーク Gallery+Shift 、space SYMBIOSIS、自由空間、ギャラリー・パレロワイヤル、青玄洞などが店閉まいした。
来年早々にはカフェいまぁじゆが閉店し、茶廊法邑も業態を縮小する。
札幌以外では、稚内の高橋英生さんアトリエ「あとりえ華」、根室の「慟哭の森美術館」が閉館し、留萌の喫茶ビューネも幕を閉じた。
正式なアナウンスはないが、札幌宮の森美術館も再開するという話は聞こえてこない。
札幌で、いくつか新しくできたギャラリーもあるが、第2弾までこぎつけたところは寡聞にして知らない。
例外はさっぽろ創世スクエアであろう。1階のロビーと、2階のスペースが、ギャラリーとして活用されている。
もっとも、この施設は、要するにニトリ文化ホール(北海道厚生年金会館)の後継であって、アートの世界に大きな刺戟を与えるようなことはいまのところ起きていない。いや、ステージ系も、有名な演目を招いてオープニングを行ったほかは、芸術監督を置くわけでもない。この点については北海道新聞文化面などで何度も批判されているが、その批判が札幌市民・道民にどれだけ届いているだろうか。
これも手短に述べるが、21世紀のホールの要諦(キモ)は「人」である。芸術監督を配し、どういう方針でステージをつくっていくのかが問われる。ハコの豪華さを競う時代はとっくに終わっているのだ。
3. 元気な分野は写真と人形
分野別に注目すべきと思われるのは、写真と人形だった。
「HOKKAIDO PHOTO FESTA」という催しが7月のコンチネンタルギャラリーを中心に展開され、森山大道写真展やワークショップ、ポートフォリオレビュー、シンポジウムなどがあった。
一方、NPO法人 北海道を発信する写真家ネットワークの主催で12月上旬、札幌「写真都市」祭が行われ、飯沢耕太郎氏を招いてシンポジウムや講演、写真展などが開かれた。
いずれも興味深い試みだけど、外部から見ていると、なんで別々にやってんの? というのが率直な感想である。
人形作家は元気だ。
中川多理さんは京都などで個展を開き、彼女を特集した雑誌が発刊された。今年上梓された「人形論」(金森修著、平凡社)の表紙も彼女の人形である。
グループAi Doccaは札幌(道新ぎゃらりー)で展覧会を開催し、そのひとり「ラクッコピコリン」こと大山さんの妖精のような少女像は全国で高い人気を得ている。
経塚真代さんの快進撃はおなじみだろう。本州でも作品が開場と同時に完売してしまうので、抽選にしているという。
ほかにも、伽井丹彌個展(札幌・Gallery Retara)や東京での川上誠さんの発表、札幌での球体関節人形のグループ展、MoonRiver Gallery(札幌)の開設など、他の分野とくらべて話題の多さでは際立っている。
4. 道立近代美術館の惨状
その半面、本来なら真っ先に書かれるであろう現代アートや洋画、美術館(とくに公立)などの話題は比較的乏しかったというのが正直なところだ。
美術館では、北海道の美術館がネットワークでつながる「アートギャラリー北海道」がスタートし、スタンプラリーが行われている。
各美術館の持つコレクションを有効活用しようという連携の取り組みで、今年は神田日勝記念美術館の所蔵品を道立帯広美術館で展示する試み(神田日勝と道東の画家たち & 岡沼淳一・木彫の世界)などが行われた。伊達市教育委員会のコレクションが道立近代、三岸好太郎の各美術館で公開されたのもこの流れだろう。
裏を返せば、各美術館とも購入費がほとんどなく、コレクションが増える見込みもない中の苦肉の策なのだろうが、北海道は広く美術館もそこそこ数はあるので、予算がない中での工夫の余地はまだあるということだと思う。
筆者は今年、あまり札幌の外に出かけていないので、大きなことは言えないのだが、道内館では、東京・国立の展示に打って出た木田金次郎美術館や有島記念館のチャレンジ精神は「買い」だと言いたい。
また、前項でも書いたが、苫小牧市美術博物館の藤沢レオ展もチャレンジングな好企画だった。
網走市立美術館が松浦進らの2人展を企画したことや、三岸好太郎美術館の若手シリーズ「みまのめ」も記しておこう。
ただし、ほかに記憶に残る企画は正直言って少なかった。
札幌では芸術の森美術館の「五十嵐威暢の世界」は、日米をまたにかけて活動したデザイナーらしく、東京と札幌のデザイナーや関係者が開催に向けてお膳立てをするという、通例とは違った顔ぶれが支えているのがおもしろく、展示作品も興味深いものがあった。
一方で、本来なら道内の美術館をリードするはずの道立近代美術館のありさまは、どういえばいいのだろう。
マスコミが本州から借りてきた美術品を、考えもなしに、ただ並べただけとしか筆者の目には見えない展覧会ばかりが続いた。
特に、宗教団体がバックについているから一定の集客を見込めるだろうという思惑があったとおぼしき展覧会では、図録もなかった。開いた口がふさがらない。
キュレーティングが悪いのではない。キュレーティングが無いのだ。
まあ道立館はとにかくお金がないから、やむを得ない面もあるのだろう。貸しスペースだと思えば腹も立つまい。
今年の道立近代美術館は、「この1枚を見てほしい」のコーナーで興味深い研究が発表されていたものの、あとは、道内の美術の歴史にまったくといっていいほど跡を残さなかった1年だと思う。
北海道の人は、こういうのが美術館だと思っているのかもしれないな。でも、違うから。
熊本の美術館が村上隆企画の現代アート展を開いたり、各県で40~50代の現代作家の個展が開催されたりしている例を知ると、なんともいえない気分になる。埼玉も横浜も金沢も香川も、頭を使った企画をガンガンやってるからね。
公立美術館の元気さでいえば、北海道はもはや後進県といっていいだろう。
5.その他
昨年ほどではないが、今年も多くの方の訃報を聞いた。
流政之、藤戸竹喜、鬼丸吉弘、松樹路人、森山誠、藤原瞬。
このうち後半の3人は昨年亡くなり、年明けに確認が取れた人たち。
ご冥福をお祈りします。
なお、これは北海道とは関係ないが、今年は美術関連の好著の出版が相次いだ(読むのがぜんぜん追いつかない)。
『彫刻 1』『日本画とは何だったのか』『現代アートとは何か』などについては、項を改めて紹介したい。