以前にも書いたが、画家の画業を振り返る展覧会を見るのが好きだ。
とりわけ、この20年ほどのあいだに開かれている回顧展は、若い時分に戦争の影響をまともにくらった画家が、戦後の激動する社会を何らかのかたちで反映している場合が多いからだろうと思う。
相原求一朗もそういった、20世紀の日本を生きた画家にほかならない。
若いころ兵役にとられ、出征先の満洲(現在の中国東北地方)でスケッチを重ねた(その画帳も出品されている)。
強く望んだ美術学校への進学はかなわなかったが、知人のつてで猪熊弦一郎に師事し、新制作美術協会に出品するようになった。
1950年代に日本の画壇を襲った抽象画旋風にはついて行けなかったが、北海道へのスケッチ旅行をきっかけに、自分の絵画をつかむ…。
このような生涯のエピソード一つ一つが、そのときに制作された作品と相まって、筆者の心をしみじみと打つのである。
日本を代表する風景画家の一人といってよい相原求一朗も、若い頃は、自分の資質がどのような画風にふさわしいのかをとらえかねて、さまざまな回り道を経巡っているのだ。1959年の「船台」にいたっては、海老原喜之助の「船を造る人」を思い出すなという方が無理である。
その後、北海道への旅行が一つの転機になったのだが、その後もしばらくはペインティングナイフの多用によって、画肌を厚くしたり、凹凸をつけたりする時期が続いた。
1970年代半ば以降の、わたしたちが「相原求一朗」という名を聞いて思い出すような作品の画風を思えば、そのような凝ったマチエールはあまり意味がないのだが、しかしそれは結果論であって、そういう一見無駄とも思える模索を通過することで、ようやく彼自身の画風にたどりついたということなのだろう。
冒頭画像は、美術館前の看板で、そこにプリントされている絵は「幸福駅 二月一日」(1987)である。
筆者も、この絵が北海道新聞日曜版の1面に掲載されたのを見て、相原求一朗の名を知ったのであり、彼の代表作といっていいだろう。
精緻だが、ハイパーリアルであることが目的ではない、確かな筆遣い。
ほとんどモノトーンというべき禁欲的な抑えた色合い。
大地が広くとられる一方で、人物はほとんど登場しない。
いずれも、相原求一朗の作品の特質といっていい。
近づいてみると、画面全体に細かい雪が降っていることがわかる。
相原求一朗の絵では、空はいつも曇っており、下界は雪で覆われていることが多い。
しかし、そのような暗く重たい風景を、私たちは憎んでいるのではない。これも、故郷のなつかしい風景なのだ。
言い方を変えれば、北海道の風景の最も本質的で精神的な部分を、道産子ではなく、埼玉県の画家が発見し描き出したのだ。すごいことだとしか言いようがない。
図録には、展覧会場にもあった、各章や、作品毎の説明文が載っているが、総論的なテキストは全くない。
それでも、物足りなさをあまり感じないのは、相原求一朗の絵が写実的であり、誰が見ても「わかる」絵だからだろう。
その一方で、彼の絵が凡百の具象絵画からぬきんでているとすれば、色も構図も引き算を重ねた末のものだからだろう。
目の前にある景物を漫然と写し取っている絵とは、対極にあるのだ。
というわけで、すばらしい展覧会だったのだが、ひとつだけどうしても書いておきたいことがある。
テレビ番組は画家を理解するための道具になりうるが、どうしてそれを展示会場の真ん中で流すかな~。
絵を見ていれば額のガラスに映像が映り込むし、音声はうるさい。
相原求一朗の全盛期の風景画とひとり静かに向き合おうとしても、集中力が妨げられることおびただしいのだ。
ビデオモニターなんて、ロビーに置けばいいと思う。
2019年4月19日(金)~5月26日(日)午前9時半~午後5時、月曜休み
道立近代美術館(札幌市中央区北1西17)
・中央バス、ジェイアール北海道バス「道立近代美術館前」で降車、すぐ(小樽、手稲方面行きは、都市間高速バスを含め全便が停車します)
・地下鉄東西線「西18丁目」4番出口から400メートル、徒歩6分
・市電「西15丁目」から700メートル、徒歩10分
とりわけ、この20年ほどのあいだに開かれている回顧展は、若い時分に戦争の影響をまともにくらった画家が、戦後の激動する社会を何らかのかたちで反映している場合が多いからだろうと思う。
相原求一朗もそういった、20世紀の日本を生きた画家にほかならない。
若いころ兵役にとられ、出征先の満洲(現在の中国東北地方)でスケッチを重ねた(その画帳も出品されている)。
強く望んだ美術学校への進学はかなわなかったが、知人のつてで猪熊弦一郎に師事し、新制作美術協会に出品するようになった。
1950年代に日本の画壇を襲った抽象画旋風にはついて行けなかったが、北海道へのスケッチ旅行をきっかけに、自分の絵画をつかむ…。
このような生涯のエピソード一つ一つが、そのときに制作された作品と相まって、筆者の心をしみじみと打つのである。
日本を代表する風景画家の一人といってよい相原求一朗も、若い頃は、自分の資質がどのような画風にふさわしいのかをとらえかねて、さまざまな回り道を経巡っているのだ。1959年の「船台」にいたっては、海老原喜之助の「船を造る人」を思い出すなという方が無理である。
その後、北海道への旅行が一つの転機になったのだが、その後もしばらくはペインティングナイフの多用によって、画肌を厚くしたり、凹凸をつけたりする時期が続いた。
1970年代半ば以降の、わたしたちが「相原求一朗」という名を聞いて思い出すような作品の画風を思えば、そのような凝ったマチエールはあまり意味がないのだが、しかしそれは結果論であって、そういう一見無駄とも思える模索を通過することで、ようやく彼自身の画風にたどりついたということなのだろう。
冒頭画像は、美術館前の看板で、そこにプリントされている絵は「幸福駅 二月一日」(1987)である。
筆者も、この絵が北海道新聞日曜版の1面に掲載されたのを見て、相原求一朗の名を知ったのであり、彼の代表作といっていいだろう。
精緻だが、ハイパーリアルであることが目的ではない、確かな筆遣い。
ほとんどモノトーンというべき禁欲的な抑えた色合い。
大地が広くとられる一方で、人物はほとんど登場しない。
いずれも、相原求一朗の作品の特質といっていい。
近づいてみると、画面全体に細かい雪が降っていることがわかる。
相原求一朗の絵では、空はいつも曇っており、下界は雪で覆われていることが多い。
しかし、そのような暗く重たい風景を、私たちは憎んでいるのではない。これも、故郷のなつかしい風景なのだ。
言い方を変えれば、北海道の風景の最も本質的で精神的な部分を、道産子ではなく、埼玉県の画家が発見し描き出したのだ。すごいことだとしか言いようがない。
図録には、展覧会場にもあった、各章や、作品毎の説明文が載っているが、総論的なテキストは全くない。
それでも、物足りなさをあまり感じないのは、相原求一朗の絵が写実的であり、誰が見ても「わかる」絵だからだろう。
その一方で、彼の絵が凡百の具象絵画からぬきんでているとすれば、色も構図も引き算を重ねた末のものだからだろう。
目の前にある景物を漫然と写し取っている絵とは、対極にあるのだ。
というわけで、すばらしい展覧会だったのだが、ひとつだけどうしても書いておきたいことがある。
テレビ番組は画家を理解するための道具になりうるが、どうしてそれを展示会場の真ん中で流すかな~。
絵を見ていれば額のガラスに映像が映り込むし、音声はうるさい。
相原求一朗の全盛期の風景画とひとり静かに向き合おうとしても、集中力が妨げられることおびただしいのだ。
ビデオモニターなんて、ロビーに置けばいいと思う。
2019年4月19日(金)~5月26日(日)午前9時半~午後5時、月曜休み
道立近代美術館(札幌市中央区北1西17)
・中央バス、ジェイアール北海道バス「道立近代美術館前」で降車、すぐ(小樽、手稲方面行きは、都市間高速バスを含め全便が停車します)
・地下鉄東西線「西18丁目」4番出口から400メートル、徒歩6分
・市電「西15丁目」から700メートル、徒歩10分