(承前)
前述したとおり、地下鉄有楽町線の護国寺駅から、目白台の永青文庫までの道を、27年ぶりに通ってみた。
護国寺駅を出ると、講談社の本社があるのは変わっていない。
84年か85年のある日、報道陣が大勢この前に群がっていて、いったい何があったのかと思っていたら、ビートたけしが「フライデー」編集部を襲撃した直後なのだった。
当時から音羽の谷は高層住宅だらけだったが、ますます高い建物が増えている。
大塚警察署があったところにも、別の高層ビルがたっていた。
すぐに角を右に折れて「三丁目坂」をのぼる。
音羽から目白通りへの近道になる。
首都高速の下をくぐり、すぐ左へ曲がる。
このあたりは、体が道順を覚えている感じだ。
このあたりの道は、自動車が通行できない幅のところが多い。
北海道には、函館や小樽のような歴史の古い港町を別にすれば、こんな細い道はほとんど無いので、最初はびっくりしたものだ。
この附近の、小さな住宅や禅寺が密集している一角に、かつて宮沢賢治が妹トシの看病のため滞在していた家が、バブル期の直前まで現存していたらしい。
東京を離れた後で知った。知っていたら、見に行っていたと思う。
自分は東京に住んでいたとき、能も歌舞伎もプロ野球も国立博物館も見に行かずじまいだった。プロ野球と国立博物館は後で見ることができたとはいえ、つくづくもったいないことをした。
突き当たりを右に曲がると、やっと車が通れる幅の道に出る。
緩やかな上り坂の左手に、目白台図書館がみえてくる。
雨宿りのついでに図書館に入り、昔なぜか一冊だけあったサンリオSF文庫(ジェイムス・ティプトリーJr.「老いたる霊長類の星への賛歌」)がまだあるかと思って、館内の文庫コーナーをのぞいてみたが、見当たらなかった。あと、当時お世話になったレコードコーナーは跡形もなく、すべてCDになっていた(当たり前か…)。
目白通を渡って、永青文庫へと向かう。
筆者はかつてこの近くにある学生寮に住んでいた。
(この寮については、村上春樹「ノルウェイの森」に登場するので、知っている人も多いだろう)
しかし、永青文庫には入ったことがなかった。
これまた、つくづくもったいないことをしたと思う。
寮の東側を南北に抜ける道の、永青文庫の直前で見た景色が、冒頭の画像だ。
このペイルオレンジの壁は、30年前とまったく変わっていなかった。
そのことが、とても、うれしかった。
前述したとおり、地下鉄有楽町線の護国寺駅から、目白台の永青文庫までの道を、27年ぶりに通ってみた。
護国寺駅を出ると、講談社の本社があるのは変わっていない。
84年か85年のある日、報道陣が大勢この前に群がっていて、いったい何があったのかと思っていたら、ビートたけしが「フライデー」編集部を襲撃した直後なのだった。
当時から音羽の谷は高層住宅だらけだったが、ますます高い建物が増えている。
大塚警察署があったところにも、別の高層ビルがたっていた。
すぐに角を右に折れて「三丁目坂」をのぼる。
音羽から目白通りへの近道になる。
首都高速の下をくぐり、すぐ左へ曲がる。
このあたりは、体が道順を覚えている感じだ。
このあたりの道は、自動車が通行できない幅のところが多い。
北海道には、函館や小樽のような歴史の古い港町を別にすれば、こんな細い道はほとんど無いので、最初はびっくりしたものだ。
この附近の、小さな住宅や禅寺が密集している一角に、かつて宮沢賢治が妹トシの看病のため滞在していた家が、バブル期の直前まで現存していたらしい。
東京を離れた後で知った。知っていたら、見に行っていたと思う。
自分は東京に住んでいたとき、能も歌舞伎もプロ野球も国立博物館も見に行かずじまいだった。プロ野球と国立博物館は後で見ることができたとはいえ、つくづくもったいないことをした。
突き当たりを右に曲がると、やっと車が通れる幅の道に出る。
緩やかな上り坂の左手に、目白台図書館がみえてくる。
雨宿りのついでに図書館に入り、昔なぜか一冊だけあったサンリオSF文庫(ジェイムス・ティプトリーJr.「老いたる霊長類の星への賛歌」)がまだあるかと思って、館内の文庫コーナーをのぞいてみたが、見当たらなかった。あと、当時お世話になったレコードコーナーは跡形もなく、すべてCDになっていた(当たり前か…)。
目白通を渡って、永青文庫へと向かう。
筆者はかつてこの近くにある学生寮に住んでいた。
(この寮については、村上春樹「ノルウェイの森」に登場するので、知っている人も多いだろう)
しかし、永青文庫には入ったことがなかった。
これまた、つくづくもったいないことをしたと思う。
寮の東側を南北に抜ける道の、永青文庫の直前で見た景色が、冒頭の画像だ。
このペイルオレンジの壁は、30年前とまったく変わっていなかった。
そのことが、とても、うれしかった。