2018年12月17日、札幌市中心部の書肆吉成しょ し よしなり丸ヨ池内GATE店で、詩人松尾由美子さん自作の詩と森美千代さんの写真を組み合わせてパネルにしたものの展示を見た。
また18日には、北区北16西5の temporary space で「訳詞家高野圭吾の世界」展を見た。こちらは、伊藤也寸志さんの写真など5人との作品と、訳詞をプリントしたものとを並べていた。
内容についてあれこれ述べる以前の問題として、ずっとモヤモヤしていることがある。
どちらの会場も、詩が横書きにプリントされていたのである。
日本語の文学が横書きになっていることには違和感を禁じ得ない。
漢字を輸入して以来、日本語は縦書きが原則である。
横書きの日本語の文書が出現するのは明治以降である。そして、戦前までは、数学の専門書などを除けば、横書きの本というのはまれだった。岩波新書の『零の発見』など、戦前に出版された一般向けの数学書は縦書きである。
中国語や韓国語ももともとは縦書きだった。朴正煕時代の東亜日報などは縦書きである。しかし、いつの間にか横書きが定着してしまい、縦書きの出版物が主流なのは世界中で日本だけになってしまった。
縦書き王国だった日本で、横書きが増えた画期になったのは、言うまでもなく1995年以降のインターネットの普及によるだろう。
かくいう筆者も、インターネット環境でブログやツイッターを、不本意ながら横書きでつづっている。この20年余りの日本では、ネットは横書き、出版や新聞は縦書きというのが大勢になりつつある。
しかし、文学(小説や詩歌など)や、漢字やかなの書は、やはり横書きに向かないのではないだろうか。
「ab さんご」のように、自覚的に横書きを選択しているのであれば話は別だが。
ちなみに、訳詞展に短歌を寄せていた山田航さんは、ちゃんと縦書きにプリントしていた。
いやしくも物書きとか文学者とか詩人を名乗るのであれば、自分の書いたものが縦で表示されるのか横で表記されるのかぐらいは、自覚的でないと困るのである。
また18日には、北区北16西5の temporary space で「訳詞家高野圭吾の世界」展を見た。こちらは、伊藤也寸志さんの写真など5人との作品と、訳詞をプリントしたものとを並べていた。
内容についてあれこれ述べる以前の問題として、ずっとモヤモヤしていることがある。
どちらの会場も、詩が横書きにプリントされていたのである。
日本語の文学が横書きになっていることには違和感を禁じ得ない。
漢字を輸入して以来、日本語は縦書きが原則である。
横書きの日本語の文書が出現するのは明治以降である。そして、戦前までは、数学の専門書などを除けば、横書きの本というのはまれだった。岩波新書の『零の発見』など、戦前に出版された一般向けの数学書は縦書きである。
中国語や韓国語ももともとは縦書きだった。朴正煕時代の東亜日報などは縦書きである。しかし、いつの間にか横書きが定着してしまい、縦書きの出版物が主流なのは世界中で日本だけになってしまった。
縦書き王国だった日本で、横書きが増えた画期になったのは、言うまでもなく1995年以降のインターネットの普及によるだろう。
かくいう筆者も、インターネット環境でブログやツイッターを、不本意ながら横書きでつづっている。この20年余りの日本では、ネットは横書き、出版や新聞は縦書きというのが大勢になりつつある。
しかし、文学(小説や詩歌など)や、漢字やかなの書は、やはり横書きに向かないのではないだろうか。
「ab さんご」のように、自覚的に横書きを選択しているのであれば話は別だが。
ちなみに、訳詞展に短歌を寄せていた山田航さんは、ちゃんと縦書きにプリントしていた。
いやしくも物書きとか文学者とか詩人を名乗るのであれば、自分の書いたものが縦で表示されるのか横で表記されるのかぐらいは、自覚的でないと困るのである。