2004年に廃刊となった「網走新聞」が、2000年に「まちの彫刻」という記事を断続的に載せていたことを、網走市立図書館の郷土資料コーナーで知った。
第1回は、本郷新「オホーツクの塔」で、1ページすべてを使っているような大型記事だが、第2回以降はふつうの寄せモノの大きさである。
しかも、第1回が1月1日付の元日号、最終回の22回が10月8日なので、連載というには間隔があきすぎている。
筆者の知らないことがいろいろ書かれており、学ぶことが多かった。
各回の内容は次の通り。
かっこ内は掲載日。
1) 本郷新「オホーツクの塔」
モデルはこの近くの漁師で1996年に69歳で亡くなった脇本直良さんという方。
地元経済界の募金で建てられ、コンクリートの柱の高さは10メートル、御影石の台座は2メートル、像自体の高さは3メートルという大作だ。
完成を祝して、音羽時雨作詞、八州秀章作曲の「オホーツクの海」という曲が作られ、網走混声合唱団とはまなす女声合唱団により披露されたという。
なお、拠出金が余り、そのお金で市立美術館前庭の五つの像がたてられた。
2)圓鍔勝三「あけぼの」(1月6日)
市民有志による彫塑像建設委員会が900万円を集めて建てた。
圓鍔さんは網走新聞に
「北国の暗い先入観とはうって変わって、明るく広大な自然の景観に感嘆した。このすばらしいまちにふさわしい像でありたいと、制作に一段と気概がこもった」
と話していた。
3)「合田綾一先生像」(1月8日)
1922年(昭和7年)から33年にかけて網走小の校長を務めた合田氏の胸像。1956年、校庭に設置された。
高さは72センチ。
なお紙面では「作者は中聖正一となっているが詳細は不明」とあるが、これは「中野五一」の誤りではないだろうか。
4)「遠藤熊吉翁像」(1月23日)
高さ3.5メートル。
これも記事では作者が「中野吾一」となっているが、中野五一と同一人物と思われる。
5)中野吾一「高田源蔵像」(1月29日)
高田源蔵は嘉永3年(1850年)、滋賀県に生まれ、大阪の商店に奉公した近江商人。明治16年に根室支店総支配人になると、翌年には函館、同26年には本店の総支配人を任された。その後は網走を拠点に汽船、ホタテなど手広く事業を手がけた、大経済人であったという。
1961年に孫の太郎氏が市内南7東6に建てた高さ50センチの胸像。
6)本田明二「朝翔・夕翔」(2月6日)
網走新聞社の佐藤久社長が提唱し、島田光・島田建設社長や市漁協の資金提供を受けて1980年、新たに架けられた中央橋に設置。高さ110センチ。
7)前田優治「蒲公英」(3月5日)
ステンレス部分は高さ8メートル。
前田さんは1950年生まれ。
テーマは「gerination(発芽)」。
頭の部分はもともとゆらゆらと動く設計になっていたという。
1991年の設置。
8)石田武至「健やか」(3月22日)
本郷新「オホーツクの塔」の剰余金で設置された、市立美術館前の作品のひとつ。
愛知県豊田市にある同様の作品の、2分の1の大きさのエスキスだという。
ただし、豊田市のものにくらべ、鳥が1羽少ないのだそうだ。
9)茄子川石材工業所「友愛」
(3月30日)
網走ライオンズクラブが、網走市総合体育館横に、クラブ創立20周年を記念して1983年に設置した。
高さ1メートルの台座の上に、40センチの黒御影石の球体が載っている。
10)圓鍔元規「少年の像」(4月1日)
網走ライオンズクラブと網走桂ライオンズクラブが1979年、第25回年次大会の開催を記念して設置。同年が国際児童年だったことも加味した。
コンクリートの台座を含めた高さは約3メートル。
しかし、筆者のブログには「少年少女像」とある。これはどういうことだろう。
11)小川研「移動方形」(4月9日)
=冒頭画像
作者の小川さんは広島県呉市出身、1948年生まれ。
武蔵野美大を卒業して、北見を拠点に活動を続けている。
この作品は250×380×120センチ。白御影石の正方形が10個連なっていて、連続写真のようだ。
小川さんは「流氷、風、森羅万象、なんでも見てくれていい」と話していたとのこと。
ライオンズの第38回年次大会を記念して網走ライオンズクラブが設置し網走市に寄贈した。
12)河田卓「平和祈念(母子)像」(4月16日)
1991年、網走市が平和都市宣言を行ったのを記念し、市が100万円、網走と網走桂の両ライオンズクラブが合わせて250万円を出して1992年に設置した。
高さは3メートル。
13)河田卓「網走鮭定置漁業発祥の地像」(5月14日)
マルキチの根田良一会長が二ツ岩地区への市の寄付を元手に1993年に、同地区入り口に設置した。
高さ1.6メートルのFRP製で、70センチの台座に載っている。
14)伊佐周「流氷」(5月28日)
市が1973年、「市制25周年 開基100年」を記念して、100万円をかけ、旧浜網走駅跡に整備した中央公園に設置した。
上のリンク先で筆者は、彫刻が見えづらいことに文句を言っているが、これは設置当初、子どもたちがすべり台がわりに遊んで危険なため、苦肉の策として周囲に木を植えたためらしい。
伊佐さんは1966年、東京藝大大学院彫刻専修を終えて、前田商事屋外美術研究所に就職した。この作は、職を得て間もないころのデザインだという。
15)前田優治「オホーツクの子」(6月4日)
市が1982年、南公園の入り口に設置。
高さ1.4メートルのポリエステル製。
前田さんは前述の「蒲公英」の作者で「古典的な技術をつかった最後の作品」と述べている。
16)河田卓「仰げ大空」(6月28日)
1989年、網走職業訓練協会の会員200人から250万円の寄付を得て、網走市能力開発センター落成と網走高等職業訓練校創立30周年を記念して設置した。
高さ2.9メートルのブロンズ製で、コンクリートの台座に載っている。
17)佐藤順四郎「モヨロ人漁撈の像」(7月9日)
1964年、網走新聞社の佐藤久の発案で、網走ライオンズクラブに話を持ちかけて網走駅前に設置された。
77年、網走駅前の工事ため、ホテル網走湖荘が預かることになった。
佐藤順四郎は常呂の根っからの放浪工芸家で、この像も、顔だけを作って制作を中断してしまい、白井四郎という人が急遽引き継いだらしい。
ところで、記事ではホテルに移設したことになっているが、現在の網走駅前にはどうみてもこの像としか思えない像が置かれている。元に戻したのだろうか。
18)盛岡勇夫「遠藤熊吉翁之像」(7月29日)
1982年、網走南ケ丘高校の同窓会が同校創立60周年を記念して、校門の横に設立した。
高さは60センチ。
題字は松橋素鶴が揮毫している。
19)石田清「鴻巣雄三氏像」/河田卓「山田道雄氏像」(8月13日)
いずれも台座を含め高さ2メートルほどのブロンズ像。
鴻巣氏は、オホーツクゴルフ場の山田道雄代表取締役が1980年にたてた胸像。
石田清は日展の評議員という。
山田氏像は1993年、オホーツクゴルフ場の樋口信夫代表取締役社長が設置した。
20)坂坦道「悶」(8月23日)
21)佐藤忠良「気どったポーズ」(8月24日)
台座は、地崎組車止内隧道工事の加藤勇社長と網走市の丸岡組の厚意。
モデルは娘の佐藤オリエといわれる。
22)谷口尉馬「裸婦座像」(8月27日)
市立美術館のロビーにある石膏の作品。
1940年の紀元二千六百年奉祝記念に出品されたもので、もとは市立郷土博物館の所蔵だったものを管理換えしたもの。
23)圓鍔勝三「北きつね物語」(10月8日)
前回から1カ月も間隔があいたせいか、紙面では22回目と、誤った回数が記されている。
高さ64センチで、市立美術館に83年に寄贈された。
「あけぼの」の取材で網走を訪れ、小清水の写真家竹田津実さんのところでキツネのエピソードを聞いて作った作品だという。
連載は以上で終わっている。
3、5、9、13、15、18、19、23と、知らない彫刻が9基もあった。
ちなみに、エコーセンター前の「ロセトの像」は、この記事の直後、2000年後半に設置されたらしく、記事では取り上げられていない。
第1回は、本郷新「オホーツクの塔」で、1ページすべてを使っているような大型記事だが、第2回以降はふつうの寄せモノの大きさである。
しかも、第1回が1月1日付の元日号、最終回の22回が10月8日なので、連載というには間隔があきすぎている。
筆者の知らないことがいろいろ書かれており、学ぶことが多かった。
各回の内容は次の通り。
かっこ内は掲載日。
1) 本郷新「オホーツクの塔」
モデルはこの近くの漁師で1996年に69歳で亡くなった脇本直良さんという方。
地元経済界の募金で建てられ、コンクリートの柱の高さは10メートル、御影石の台座は2メートル、像自体の高さは3メートルという大作だ。
完成を祝して、音羽時雨作詞、八州秀章作曲の「オホーツクの海」という曲が作られ、網走混声合唱団とはまなす女声合唱団により披露されたという。
なお、拠出金が余り、そのお金で市立美術館前庭の五つの像がたてられた。
2)圓鍔勝三「あけぼの」(1月6日)
市民有志による彫塑像建設委員会が900万円を集めて建てた。
圓鍔さんは網走新聞に
「北国の暗い先入観とはうって変わって、明るく広大な自然の景観に感嘆した。このすばらしいまちにふさわしい像でありたいと、制作に一段と気概がこもった」
と話していた。
3)「合田綾一先生像」(1月8日)
1922年(昭和7年)から33年にかけて網走小の校長を務めた合田氏の胸像。1956年、校庭に設置された。
高さは72センチ。
なお紙面では「作者は中聖正一となっているが詳細は不明」とあるが、これは「中野五一」の誤りではないだろうか。
4)「遠藤熊吉翁像」(1月23日)
高さ3.5メートル。
これも記事では作者が「中野吾一」となっているが、中野五一と同一人物と思われる。
5)中野吾一「高田源蔵像」(1月29日)
高田源蔵は嘉永3年(1850年)、滋賀県に生まれ、大阪の商店に奉公した近江商人。明治16年に根室支店総支配人になると、翌年には函館、同26年には本店の総支配人を任された。その後は網走を拠点に汽船、ホタテなど手広く事業を手がけた、大経済人であったという。
1961年に孫の太郎氏が市内南7東6に建てた高さ50センチの胸像。
6)本田明二「朝翔・夕翔」(2月6日)
網走新聞社の佐藤久社長が提唱し、島田光・島田建設社長や市漁協の資金提供を受けて1980年、新たに架けられた中央橋に設置。高さ110センチ。
7)前田優治「蒲公英」(3月5日)
ステンレス部分は高さ8メートル。
前田さんは1950年生まれ。
テーマは「gerination(発芽)」。
頭の部分はもともとゆらゆらと動く設計になっていたという。
1991年の設置。
8)石田武至「健やか」(3月22日)
本郷新「オホーツクの塔」の剰余金で設置された、市立美術館前の作品のひとつ。
愛知県豊田市にある同様の作品の、2分の1の大きさのエスキスだという。
ただし、豊田市のものにくらべ、鳥が1羽少ないのだそうだ。
9)茄子川石材工業所「友愛」
(3月30日)
網走ライオンズクラブが、網走市総合体育館横に、クラブ創立20周年を記念して1983年に設置した。
高さ1メートルの台座の上に、40センチの黒御影石の球体が載っている。
10)圓鍔元規「少年の像」(4月1日)
網走ライオンズクラブと網走桂ライオンズクラブが1979年、第25回年次大会の開催を記念して設置。同年が国際児童年だったことも加味した。
コンクリートの台座を含めた高さは約3メートル。
しかし、筆者のブログには「少年少女像」とある。これはどういうことだろう。
11)小川研「移動方形」(4月9日)
=冒頭画像
作者の小川さんは広島県呉市出身、1948年生まれ。
武蔵野美大を卒業して、北見を拠点に活動を続けている。
この作品は250×380×120センチ。白御影石の正方形が10個連なっていて、連続写真のようだ。
小川さんは「流氷、風、森羅万象、なんでも見てくれていい」と話していたとのこと。
ライオンズの第38回年次大会を記念して網走ライオンズクラブが設置し網走市に寄贈した。
12)河田卓「平和祈念(母子)像」(4月16日)
1991年、網走市が平和都市宣言を行ったのを記念し、市が100万円、網走と網走桂の両ライオンズクラブが合わせて250万円を出して1992年に設置した。
高さは3メートル。
13)河田卓「網走鮭定置漁業発祥の地像」(5月14日)
マルキチの根田良一会長が二ツ岩地区への市の寄付を元手に1993年に、同地区入り口に設置した。
高さ1.6メートルのFRP製で、70センチの台座に載っている。
14)伊佐周「流氷」(5月28日)
市が1973年、「市制25周年 開基100年」を記念して、100万円をかけ、旧浜網走駅跡に整備した中央公園に設置した。
上のリンク先で筆者は、彫刻が見えづらいことに文句を言っているが、これは設置当初、子どもたちがすべり台がわりに遊んで危険なため、苦肉の策として周囲に木を植えたためらしい。
伊佐さんは1966年、東京藝大大学院彫刻専修を終えて、前田商事屋外美術研究所に就職した。この作は、職を得て間もないころのデザインだという。
15)前田優治「オホーツクの子」(6月4日)
市が1982年、南公園の入り口に設置。
高さ1.4メートルのポリエステル製。
前田さんは前述の「蒲公英」の作者で「古典的な技術をつかった最後の作品」と述べている。
16)河田卓「仰げ大空」(6月28日)
1989年、網走職業訓練協会の会員200人から250万円の寄付を得て、網走市能力開発センター落成と網走高等職業訓練校創立30周年を記念して設置した。
高さ2.9メートルのブロンズ製で、コンクリートの台座に載っている。
17)佐藤順四郎「モヨロ人漁撈の像」(7月9日)
1964年、網走新聞社の佐藤久の発案で、網走ライオンズクラブに話を持ちかけて網走駅前に設置された。
77年、網走駅前の工事ため、ホテル網走湖荘が預かることになった。
佐藤順四郎は常呂の根っからの放浪工芸家で、この像も、顔だけを作って制作を中断してしまい、白井四郎という人が急遽引き継いだらしい。
ところで、記事ではホテルに移設したことになっているが、現在の網走駅前にはどうみてもこの像としか思えない像が置かれている。元に戻したのだろうか。
18)盛岡勇夫「遠藤熊吉翁之像」(7月29日)
1982年、網走南ケ丘高校の同窓会が同校創立60周年を記念して、校門の横に設立した。
高さは60センチ。
題字は松橋素鶴が揮毫している。
19)石田清「鴻巣雄三氏像」/河田卓「山田道雄氏像」(8月13日)
いずれも台座を含め高さ2メートルほどのブロンズ像。
鴻巣氏は、オホーツクゴルフ場の山田道雄代表取締役が1980年にたてた胸像。
石田清は日展の評議員という。
山田氏像は1993年、オホーツクゴルフ場の樋口信夫代表取締役社長が設置した。
20)坂坦道「悶」(8月23日)
21)佐藤忠良「気どったポーズ」(8月24日)
台座は、地崎組車止内隧道工事の加藤勇社長と網走市の丸岡組の厚意。
モデルは娘の佐藤オリエといわれる。
22)谷口尉馬「裸婦座像」(8月27日)
市立美術館のロビーにある石膏の作品。
1940年の紀元二千六百年奉祝記念に出品されたもので、もとは市立郷土博物館の所蔵だったものを管理換えしたもの。
23)圓鍔勝三「北きつね物語」(10月8日)
前回から1カ月も間隔があいたせいか、紙面では22回目と、誤った回数が記されている。
高さ64センチで、市立美術館に83年に寄贈された。
「あけぼの」の取材で網走を訪れ、小清水の写真家竹田津実さんのところでキツネのエピソードを聞いて作った作品だという。
連載は以上で終わっている。
3、5、9、13、15、18、19、23と、知らない彫刻が9基もあった。
ちなみに、エコーセンター前の「ロセトの像」は、この記事の直後、2000年後半に設置されたらしく、記事では取り上げられていない。