なるほど、うまいことを考えたな~と思う。
主催・会場の本郷新記念札幌彫刻美術館は、本郷の遺品をそっくり譲り受けたことがコレクションの出発点になっている。その後に管理替えなどがあって発足当時の点数がそのまま現在に引き継がれているかどうかは分からないとはいえ、事情からいっても、本職の彫刻以外のデッサンや絵画などが所蔵品の半分を占めることは当然のことわりである。
しかし、所蔵品展の展示作は、どうしても彫刻が多くなってしまうのも避けられまい。デッサン類はなかなか日の目が当たらなくなってしまう。
一流の彫刻家はデッサンも絶品なのが常だ。
とはいえ、デッサン展という看板ではあまりお客さんも来ないだろう。
そこで、今回のようなテーマを掲げれば、ふだんは展示する機会のあまりないデッサンも、訪れた人にたくさんお目に掛けることができるわけだ。
急いで付け加えれば、今回はデッサン展ではなく、計61点のうち28点が彫刻(26点がブロンズ、木彫と樹脂が各1点)となっている。
海外での知見だけでなく、それを実際の彫刻作品にどうフィードバックさせて生かしたのかを、並べて展示していることに意味があるのだと思う。
左は「WIEN シュトラウスの記念碑」(1953年頃)。
そのとなりは「WIENにて」(1952~53年)。
女性の横顔をさっと描いている。
美術館のサイトに書かれた文章を引用する。
1950年代、まだ海外旅行が一般的ではなかった時代に、彫刻家・本郷新は二度にわたり異国へ旅をしました。
1952年にはウィーンで開催される世界平和会議への出席のために渡欧し、日本平和委員としてパリ、プラハ、モスクワ、レニングラードなどを訪れました。1956年には、画家の梅原龍三郎や文学者の石川達三ら日本を代表する文化人で組織されたアジア文化使節団の一員として、インド、エジプト、ギリシア、イタリア、中国など、多くの国を歴訪し、そこで目にした街並みや自然、そして人々の生きる姿を巧みなスケッチに残しました。かの地で見た風物は、本郷のその後の彫刻制作にも活かされていきます。
本展では、当館の所蔵品の中から、旅の道すがらに多数描かれた素描や、帰国後に制作された《裸婦》、《嵐の中の母子像》、《無辜の民》シリーズ等を展覧します。
本郷新は遠く異国の地で何を見て、何を得たのか。その作品から、一彫刻家の思想と創作の軌跡をたどります。
右側の2点は「プラハにて」(1952)。
チェコスロバキア(現在はチェコとスロバキアに分裂)の首都でのスケッチ。
次の画像、右端は「チエホフの墓」(1956)。
いうまでもなく、「桜の園」などで知られるロシアの小説家・劇作家チェーホフである。
この一角には、平壌、パリ、ポンペイ、ローマ、モスクワ、タシケント、北京、ウランバートルで1956年に書かれたスケッチ14点が並ぶ。
当時本郷が家族にあてた手紙の文面が添えられており、芸術の都パリに興奮しきっているようすがうかがえて、ほほえましい。
それにしてもーと驚くのは、行き先全体に共産主義圏の占める割合の高さである。
スケッチをした場所でいえば、フランスとイタリアをのぞけば、すべて当時の共産圏諸国である。
サイトの説明文にはインド、エジプト、ギリシアも記されているが、ほかはソ連、北朝鮮、モンゴル、中国、チェコスロバキアの地名が並ぶ。
2度にわたる旅行の性格上、本郷が主体的に訪問先を選択できたとは考えにくい。
ただ、旅行先で彼がどんなことを考えていたのかは、興味がある。
本郷新は「ヒューマニスト」という枕詞つきで紹介されることが多い。
しかし彼は第2次世界大戦中、日本美術報国会の彫塑部幹事や勤皇烈士顕彰彫塑展の委員として、いわば彫刻界で最も精力的に戦争推進に動き回った一人であった。
あの悲惨な戦争の終結後、彼がどのような反省をしたのか、筆者は寡聞にして知らない。
そして、1952年のサンフランシスコ講和条約と56年のスターリン批判の間というのは
「ソビエトは労働者の天国である」
というような言説がある程度行き渡ることが可能な時代だった。
(逆に言えば、日本の進歩派知識人がソ連になんらかの幻想を抱いていたのは、この4年ほどの短い間だけである)
いうまでもなく、朝鮮戦争の時代はレッドパージで多くの共産主義者が職場から追放されたし、ソ連の新しい指導者フルシチョフは53年に歿したスターリンの生前の体制に対し、その独裁を厳しく批判した。
本郷の外遊は、1回目が講和条約の直後であり、2回目がスターリン批判の直後である。
当然、同行した人士の共産主義に対して抱く思想も変化したことが考えられよう。
それはともかく、本郷新の思想は、戦後は「権力者より市民の側に立つ」ということで一貫していたのは間違いあるまい。
それがひとつの頂点に達したのが「無辜の民」の連作であろう。
本郷はパレスティナやベトナムに足を運んだわけではないが、海外の情勢には強い関心を抱き続けていたのだ。
2019年1月25日(金)~3月14日(木)午前10時~午後5時(最終入館4時30分)、月曜休み(ただし月曜が祝日の場合は翌火曜休み)
本郷新記念札幌彫刻美術館(札幌市中央区宮の森4の12)
一般300(250)円、65歳以上250(200)円、高大生200(100)円、中学生以下無料
※( )内は10人以上の団体料金
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■札幌第二中学の絆展 本郷新・山内壮夫・佐藤忠良・本田明二 (2009、画像なし)
■独創性への道標-ロダン・高村光太郎・本郷新展(2009年、画像なし)
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本郷新記念札幌彫刻美術館からの帰り方
・地下鉄東西線「西28丁目」駅で、ジェイアール北海道バス「循環西20 神宮前先回り」に乗り継ぎ、「彫刻美術館入口」で降車。約620メートル、徒歩8分
・地下鉄東西線「円山公園」駅で、ジェイアール北海道バス「円14 荒井山線 宮の森シャンツェ前行き」「円15 動物園線 円山西町2丁目行き/円山西町神社前行き」に乗り継ぎ、「宮の森1条10丁目」で降車。約1キロ、徒歩13分
※ばんけいバスも停車しますが、サピカなどのカードは使えません
・地下鉄東西線「西28丁目」「円山公園」から約2キロ、徒歩26分
主催・会場の本郷新記念札幌彫刻美術館は、本郷の遺品をそっくり譲り受けたことがコレクションの出発点になっている。その後に管理替えなどがあって発足当時の点数がそのまま現在に引き継がれているかどうかは分からないとはいえ、事情からいっても、本職の彫刻以外のデッサンや絵画などが所蔵品の半分を占めることは当然のことわりである。
しかし、所蔵品展の展示作は、どうしても彫刻が多くなってしまうのも避けられまい。デッサン類はなかなか日の目が当たらなくなってしまう。
一流の彫刻家はデッサンも絶品なのが常だ。
とはいえ、デッサン展という看板ではあまりお客さんも来ないだろう。
そこで、今回のようなテーマを掲げれば、ふだんは展示する機会のあまりないデッサンも、訪れた人にたくさんお目に掛けることができるわけだ。
急いで付け加えれば、今回はデッサン展ではなく、計61点のうち28点が彫刻(26点がブロンズ、木彫と樹脂が各1点)となっている。
海外での知見だけでなく、それを実際の彫刻作品にどうフィードバックさせて生かしたのかを、並べて展示していることに意味があるのだと思う。
左は「WIEN シュトラウスの記念碑」(1953年頃)。
そのとなりは「WIENにて」(1952~53年)。
女性の横顔をさっと描いている。
美術館のサイトに書かれた文章を引用する。
1950年代、まだ海外旅行が一般的ではなかった時代に、彫刻家・本郷新は二度にわたり異国へ旅をしました。
1952年にはウィーンで開催される世界平和会議への出席のために渡欧し、日本平和委員としてパリ、プラハ、モスクワ、レニングラードなどを訪れました。1956年には、画家の梅原龍三郎や文学者の石川達三ら日本を代表する文化人で組織されたアジア文化使節団の一員として、インド、エジプト、ギリシア、イタリア、中国など、多くの国を歴訪し、そこで目にした街並みや自然、そして人々の生きる姿を巧みなスケッチに残しました。かの地で見た風物は、本郷のその後の彫刻制作にも活かされていきます。
本展では、当館の所蔵品の中から、旅の道すがらに多数描かれた素描や、帰国後に制作された《裸婦》、《嵐の中の母子像》、《無辜の民》シリーズ等を展覧します。
本郷新は遠く異国の地で何を見て、何を得たのか。その作品から、一彫刻家の思想と創作の軌跡をたどります。
右側の2点は「プラハにて」(1952)。
チェコスロバキア(現在はチェコとスロバキアに分裂)の首都でのスケッチ。
次の画像、右端は「チエホフの墓」(1956)。
いうまでもなく、「桜の園」などで知られるロシアの小説家・劇作家チェーホフである。
この一角には、平壌、パリ、ポンペイ、ローマ、モスクワ、タシケント、北京、ウランバートルで1956年に書かれたスケッチ14点が並ぶ。
当時本郷が家族にあてた手紙の文面が添えられており、芸術の都パリに興奮しきっているようすがうかがえて、ほほえましい。
それにしてもーと驚くのは、行き先全体に共産主義圏の占める割合の高さである。
スケッチをした場所でいえば、フランスとイタリアをのぞけば、すべて当時の共産圏諸国である。
サイトの説明文にはインド、エジプト、ギリシアも記されているが、ほかはソ連、北朝鮮、モンゴル、中国、チェコスロバキアの地名が並ぶ。
2度にわたる旅行の性格上、本郷が主体的に訪問先を選択できたとは考えにくい。
ただ、旅行先で彼がどんなことを考えていたのかは、興味がある。
本郷新は「ヒューマニスト」という枕詞つきで紹介されることが多い。
しかし彼は第2次世界大戦中、日本美術報国会の彫塑部幹事や勤皇烈士顕彰彫塑展の委員として、いわば彫刻界で最も精力的に戦争推進に動き回った一人であった。
あの悲惨な戦争の終結後、彼がどのような反省をしたのか、筆者は寡聞にして知らない。
そして、1952年のサンフランシスコ講和条約と56年のスターリン批判の間というのは
「ソビエトは労働者の天国である」
というような言説がある程度行き渡ることが可能な時代だった。
(逆に言えば、日本の進歩派知識人がソ連になんらかの幻想を抱いていたのは、この4年ほどの短い間だけである)
いうまでもなく、朝鮮戦争の時代はレッドパージで多くの共産主義者が職場から追放されたし、ソ連の新しい指導者フルシチョフは53年に歿したスターリンの生前の体制に対し、その独裁を厳しく批判した。
本郷の外遊は、1回目が講和条約の直後であり、2回目がスターリン批判の直後である。
当然、同行した人士の共産主義に対して抱く思想も変化したことが考えられよう。
それはともかく、本郷新の思想は、戦後は「権力者より市民の側に立つ」ということで一貫していたのは間違いあるまい。
それがひとつの頂点に達したのが「無辜の民」の連作であろう。
本郷はパレスティナやベトナムに足を運んだわけではないが、海外の情勢には強い関心を抱き続けていたのだ。
2019年1月25日(金)~3月14日(木)午前10時~午後5時(最終入館4時30分)、月曜休み(ただし月曜が祝日の場合は翌火曜休み)
本郷新記念札幌彫刻美術館(札幌市中央区宮の森4の12)
一般300(250)円、65歳以上250(200)円、高大生200(100)円、中学生以下無料
※( )内は10人以上の団体料金
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■札幌第二中学の絆展 本郷新・山内壮夫・佐藤忠良・本田明二 (2009、画像なし)
■独創性への道標-ロダン・高村光太郎・本郷新展(2009年、画像なし)
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「北の母子像」本郷新
札幌・宮の森緑地 (鳥を抱く女、太陽の母子)
網走の野外彫刻
本郷新「奏でる乙女」
本郷新記念札幌彫刻美術館への行き方(アクセス)
本郷新記念札幌彫刻美術館からの帰り方
・地下鉄東西線「西28丁目」駅で、ジェイアール北海道バス「循環西20 神宮前先回り」に乗り継ぎ、「彫刻美術館入口」で降車。約620メートル、徒歩8分
・地下鉄東西線「円山公園」駅で、ジェイアール北海道バス「円14 荒井山線 宮の森シャンツェ前行き」「円15 動物園線 円山西町2丁目行き/円山西町神社前行き」に乗り継ぎ、「宮の森1条10丁目」で降車。約1キロ、徒歩13分
※ばんけいバスも停車しますが、サピカなどのカードは使えません
・地下鉄東西線「西28丁目」「円山公園」から約2キロ、徒歩26分